楽団日記

札幌で活動する芝居のエンターテイメント集団、                                  弦巻楽団の弦巻楽団による皆様のための日記です。

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長い呪文の詠唱なのだ

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おかげさまで、紆余曲折はありましたが弦巻楽団 演劇研究講座 第3期発表公演『舞台に立つ』は無事、終演しました。毎度の反省ながらもっともっとPR活動に力を入れなくては…と思いつつも、毎回当日券の方が沢山観に来て下さる、ありがたい公演となりました。
参加者が15名(うち1人が途中で体調不良により不参加となりました。残念!)、しかも幅広い年代の人が集うとあって、最終的にテキストはシェイクスピアの「夏の夜の夢」にしました。以前から、シェイクスピアの「喜劇」にちゃんと取り組んでみたかったのです。2週間、初舞台の人間も含めて、15人で濃密に稽古が進みました(深津による日記にその過程が克明に…)。本番は台本を持って「リーディング」として行いました。「リーディング」としてのまとめ方に、少し反省が残りますが、「物語」を眼前に具現化する、と言う目標には、充分に手応えがありました。
終演後、毎回ディスカッションをお客さんと(強引に)行いました。答えて下さったお客様、本当にありがとうございます。

講座の二日目、参加者のカズから「どうやって外国人を演じるべきでしょうか?」と言う質問が出ました。
こう答えました。「なりきらないことです。」
私たちが、虚構(作品)をはさんで観客と向き合う、そんなスタンスで演劇に臨みましょう、と。

『舞台に立つ』の3日後、今度は教えてる高校の発表公演がありました。
2月に大きな本番を終えた生徒に、1年間の締めくくりとして新たに課題を与え、一ヶ月取り組んでもらってました。
1年生は1年生だけで取り組む、初めての演劇作品でした。
欠席者が多かったり、順調に準備できた訳ではなく、当日になって配役の変更もありながら、それでも、演劇の醍醐味、ドラマが現れる瞬間、神秘と言っても良い、そんな瞬間が確かに産まれました。

この二つの公演を終えて、考えるのはその「神秘」みたいなもの、についてです。
「夏の夜の夢」で「物語」が確かに目の前に現れる瞬間、
高校生の間でドラマが産まれる瞬間、
それは、ある共通項があるように思います。
すごく極端に言えば、「感情」ではなく「情報」がきちんと伝わって来る時でした。

「夏の夜の夢」で、『役柄』ではなく、『自分』の感受性を基準に喜怒哀楽が変化したとき、物語が煙のように消えてしまう瞬間がありました。どんなに勢い良く怒鳴ろうとも、そこに「物語」は現れてくれませんでした。
もちろん『役柄』か『自分』か、なんて判断を印象以上に厳密にジャッジできるのか?と言う問題もあります。
そうした時は、ただただ台本に帰るようにしました。
その言葉が、その関係性のなかで、その状況で、前後の事象の間で口にされる根拠を、行動の意味することを、ひたすら議論し、検討しました。
その試みとして、まず句読点を完全に正確に読む、!マークは必ず!マークとして読む、などから始めました。
自分の生理と違うタイミングで「!」マークがあると、意外に戸惑うものです。そこも、「自分流」を完全に禁止しました。
まず、「役柄」の呼吸のリズムを感じる。その情報をきちんと汲み取る。


当日のパンフレットにはこんな風に書きました。


『あえて、生活から遠い言葉で書かれた戯曲に取り組みたかったのです。
何故か?
身の丈のリアリティばかりが優先される演劇や演技の作品が溢れる今だからこそ、
取り組む価値があると僕は思ってます。
「身の丈のリアリティ」だと誤解を招くかもしれません。
言葉を変えると、それは「実感主義」とでも名付けましょうか。
全ての文章を「私の感覚」で読み解いていくやりかたのことです。
そうしたやり方で優れた舞台があるのも重々承知です。
しかし、それで役者は成長するのだろうか、と思うのです。
いえ、演技はそれで良いのだろうか、と思うのです。
書かれていることを、読む。
描かれている行動を、とる。
たとえ心情では理解できなくても。
笑った後に「突然泣く」と書いてあれば「突然泣く」。
哀しみが涙をこぼさせるまで待つ、なんてことは絶対にしない。
極論、そう言うことです。
(もちろん、心情とは別次元で「理解」することは大切です。書かれてることを、正確に読み取らなくてはいけません。)
観てる側には、笑った後、
突然泣いた人物の心情は理解できないかもしれません。
しかし、「笑った後に突然泣いた」彼、もしくは彼女の存在の痛ましさは伝わるかもしれない。
その痛ましさが伝われば、
ひょっとしたら彼(彼女)の心情が思い浮かべられるかもしれない。
そうして取り組んだ方が、時代や、文化の違う場所で書かれた戯曲の登場人物達に、
近づけるような気がするんです。演劇が、豊かになるとさえ思うのです。』


2週間、結局一度も「感情を込めて!」みたいなことは口にしませんでした。
演劇経験がある人が、「感情を込め」ようとした瞬間、劇空間はかえって消えてしまうように見えました。
しかし、感情的に全編無であれば良い、と言う訳でもありませんでした。
「夏の夜の夢」は非常に、幸福なエモーションに満ちた作品です。

例えば。
「感情を込め」ようとしてる人を見ると、その人は相手に、状況に何かを伝えようとしてるのではなく、自分の(頭の中の)幻想に向かって話してるように感じます。そこにいる人ではなく、頭の中のドラマに浸っている、そんな感じです。「そこにいる人」を見ていない、その瞬間、その役者は「そこにいる」状態ではなくなってしまう。
「そこにいない」のだから、劇空間はもちろん現れず、「物語」は立ち上がってきません。
そういうことなのかな、と思います。

卵が先か鶏が先か、みたいな話ですが、「自分から」は出来ないのだと思います。
相手役と言葉をかけて、かけて、言葉が巡っていくうちに「舞台上で」産まれた感情以外、何かを持ち込んではいけないんだと思います。それは、全員で長い呪文を唱えてるような気分でした。それでも、本番含めた2週間に幾度か、その瞬間が降りてくることがありました。

そんなことを考えてる今日、岩見沢で行われている「そらち演劇フェスティバル」にやって来ました。
昨年作・演出をした美唄の市民劇団WAの公演を今日は観ました。
今年は完全に、自分達だけで作ったオリジナル舞台です。

素敵でした。もちろん、完璧とはほど遠い、でもチャーミングな舞台でした。
みんなは「お恥ずかしい」と終演後口にしてましたが、全然そんな引け目を感じるような出来じゃありませんでした。
もっともっと良くなる気はします。でもそれは、市民劇団である彼らが「訓練され、プロのように」なれば良いという意味ではありません。訓練され、みんなが同じような「優秀な」演技をするようになっては、とてもつまらない。かといって、素人臭さを売りにする訳でもない、そんな「進歩」が確かにあるような気がします。
言ってしまえば、彼らがそんな風に進歩できる道を見つけられなければ、演劇の負けだとさえ思うのです。
(すでに、それが出来る演劇人もいるのかもしれません。)

技術が無ければ良い、という訳ではもちろんありません。
演劇人としては、技術は絶対に必要です。
劇団としては、そこを(弦巻楽団なりに)目指してます。

だけど、技術が無くても、演劇の神秘を体験できる。
そんなあり方を確立できたら、もっともっと自分は演劇を好きになれる気がしているのです。

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『舞台に立つ』打ち上げ風景。

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そらち演劇フェスティバル、会場ロビーです。いわみちゃんが休憩中。

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WAの看板女優、ななさん。

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同じく看板女優、ままさん。作り物上手で、このアスパラ帽子も彼女の作。

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懇親会にも参加。

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この冬は越せなかったか…。と思った3年目のアジアンタム。新しい芽が出てきました。
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